Sunday, July 3, 2016

自伝

自分の若い頃には、物書きになることが目標だった。

物書きでなくとも、芸術とか、学問とか、そういった分野に向いているのだと思った。向いている、と言えばそうなのだろうと思う。私は小学生くらいのときに漫画を描いていて、それは好評だった。また大学に入ってから、音楽を始めてみて、これは今も続けているが、自分はその辺のアマチュアよりも上手だと思っている。物書きとしても、こうしてここ三年くらいずっと書き続けていることを考えると、マアマア適性はあるのではないかと思っている。

芸術には、ある繊細さが要求される。これは掛け値なしに言えることだ。芸術とは感じるものだから、sensitivityのない人間に芸術はできない。大衆的なラーメン屋には、一流のそば屋の真似はできない(ただし、私はそばよりラーメンが好きだが)。

その点では、私の極端なほどの感受性は、芸術向きなのである。私が9歳からの頃から、おおきな疑問があった。同級生を見てこう思うのである。なぜこれらのひとびとは、昨日も彼であり、明日も彼であるのか?と。つまり、同級生たちは、人格が危うくなるほど極度に不安定になることがないのである。私は、あることに感激したあとに、あることに落ち込むということが続いていた。私はささいなことに大泣きして、ささいなことに歓喜した。昨日の私は、明日には違う人間になっていた。そうして、私はそれが当然だと思っていた。鉄面皮の同級生たちも、自分の部屋で独りになったら、シーツをよだれで汚しながら、大泣きしているのだろうと考えていた。

ただ、今になって知ったことだが、世の中の人々はそこまで「感じて」はいない。彼らはそれほど激しい感情の変化を受けないのである。つまり、彼らは外的な刺激に対して、私からすれば驚くほど無頓着なのである。彼らはそれで良いのである。

私からすれば、彼らはまるで間抜けのように見えたのだった。なにか愚鈍な家畜のように思えた。私はずっと、自分の鋭敏な神経を呪っていた。これはたいていの場合、私に苦しみをもたらしたからである。次には、私は自分の神経を誇るようになった。