Sunday, April 3, 2016

千恵子の一日

 一歩あるくごとに「暗い」「冷たい」「死にたい」などの言葉が、リズムよく脳内を踊るので、千恵子はたいへん苦労した。スーパーの、明るい店内では、いろんな雑音が聞こえてくる。それらがぼーっとくぐもって聞こえる。スーパーのなかは、休日だからいろんな人がいる。カップルや、老夫婦、さわがしい子ども。みんな、たいてい、笑っているように見える。

 だが、千恵子はまず顔をあげなかった。商品棚と、よくワックスで磨かれた床だけを見ていた。イヤホンも耳から外さなかった。外界は、それでも好ましく思えた。薄暗い自分のアパートで、とことん気が滅入ったから、それに買わなければいけないものもたくさんあったから、千恵子はスーパーにきたのだ。

 千恵子はスーパーの刺激を恐れているから、イヤホンをつけて伏し目なのだが、それでも千恵子はスーパーの喧噪を、愛していた。それは遠巻きに見ていたいものだった。伏し目で歩いていれば、「私は安全なところにいる」と千恵子は思うことができたのだった。

 それにしても、千恵子は自分がなぜ憂鬱なのだろうか、と考えた。「たぶん、私には友達もいないし、恋人もいないからだ」と千恵子は思った。

 千恵子は、現在三十五歳であり、子どももなく、恋人はおらず、肉親は父親が遠方に住んでいる。母は千恵子が小さいときに死んだ。千恵子は、中堅クラスの企業につとめるOLであった。千恵子は、別段結婚を焦る気持ちはなかった。千恵子は、それなりに美人だった。美人がゆえに、恋人がいないのだ、と何度か言われた。

 ただ――千恵子はいつも自分のことで精一杯で、他人のことを気にかけることが、できないのであった。それは千恵子には耐えがたい重荷に感じるのであった。千恵子は、良い結婚生活を維持しながら、暖かい家庭を築き上げている知人などを想像し、なにかこの世にあらざるもの、自分とは違う生き物のように感じるのであった。

 「暗い」「冷たい」「沈んで」「しまいそうだ」――この言葉は、どこから沸いてくるのか、千恵子にはわからなかった。だが、千恵子がサンダルで地面を踏みしめるたびに、足元から脳天まで響くようだった。それは、存外明るい響きを持っていた。踊りだしたいリズムだ。

 「死にたい」「死にたい」「死にたい」と、千恵子はだれにも聞こえないように、頭のなかで歌いながら、いろんな雑多なひとびとを視界のすみで流しながら、会計を済ませた。

 スーパーの店員は、見知った顔だが、ひとことも話したことはない。彼女は一生懸命仕事をしていた。私より、何倍も給料は少ないだろうけど、きっと彼女の方が幸福だろう、と千恵子は思った。でも、私が憂鬱をだれにも打ち明けないように、彼女も沈んでしまいそうな気持ちなのかもしれない、と思った。でも、彼女のふとましい腕を見ていると、そんなことはないか、とひとりで笑った。笑うと同時に、少し涙も出た。

 そうして、「何もないのに、涙がにじみ出るのはなぜだろう」と考えた。私の涙はなんのために出るのだろう、と考えた。私の涙は、だれに何を表明しているのだろうか。私の涙は、なんの因果関係であらわれたのだろうか。千恵子は、さらに疑問を深めた。

「私に涙を流させるのは、だれ?」

 スーパーを出ると、そっけないデザインの自転車にまたがって、自宅へ向かった。千恵子の体は麻痺したように無感覚だった。意志もなにもなかった。ただ惰性でペダルを漕ぐのだった。

 千恵子のアパートが近づいてくると、いつものことだが、彼女は緊張するのだった。なぜなら、千恵子の住居の周りには、あまりに多数の人が住んでいるのである。そうして、彼らはもしかしたら私に危害を加えるかもしれないし、そうでなくても、私のことをひそひそ陰口をしているかもしれないからだ。千恵子は、だれに見られても文句のないように、周りは見ずに、平静な、常識的な、まともな人間の体を装い、アパートの鍵を、自然な動作であけるのだった。

 そうして千恵子は、玄関の脇にスーパーの袋を置くと、ゆらゆらとベッドへ向かった。そうして、思うがままに泣いた。千恵子は夜まで泣いた。また明日がくるのだ。