Wednesday, December 23, 2015

22時のオフィスで

「こういう世の中ってのは、嫌なもんだね。働いても、虚しいし、働かなくても虚しいもんだ」

と、会社の先輩がいうので、俺はそうですね、と返しただけで、書類を目で追っていた。

「何のために働くのかね?一日八時間は働いて、残業が何時間も。君、何時間寝てる?」

上司は、椅子をくるくる回しながら、背もたれを抱きかかえてこちらを見つめている。俺は書類を見つめたまま、

「6時間ですかね。」

「6時間!ちょっと少ないね。君はきっと、血が多いんだろう」

先輩はことあるごとに低血圧をアピールするので、俺は慣れっこになっていた。

「考えてもみろよ。12時間働くだろう。そうして、6時間寝れば、残りは何時間だ」

「18時間だから、残りは6時間ですね」

俺は書類をばさっと机の上に置いて、先輩の目を見つめていった。

「先輩の言いたいことはわかりますよ。でも、しょうがないですね。みんなそんなもんですよ」

先輩は背もたれにもたれかかって、ため息をついた。

「俺、もう働くの疲れちった……」

右斜め上の蛍光灯がチカチカ言っている。向かいのビルは照明がまばらになってきている。

「先輩、明日は土曜ですよ。休めますよ」

「そういうんじゃないんだよなあ。土曜ったって、その次の次の日は月曜だぜ」

俺は冷めきったコーヒーをあおった。

「当たり前じゃないですか。当たり前ですよ」

「やだ……」

「いいですか、先輩」

俺は腕を組んで向き直った。

「だれだって仕事は嫌なんです。それでも仕事はしなければならない。先輩、この会社入って何年です?」

「もう10年になるかなあ。考えたくない。一瞬だよ、十年なんてね。」

「おまけに俺と同じヒラですよね」

先輩はケタケタ笑った。

「俺はまだ半年です。でも、わかりますよ。仕事はつらいんです。嫌で逃げ出したいんですよ。それでも出勤しなければならない。働かなければいけない。そうじゃないですか?」

先輩は立ち上がると、後ろ手を組んで窓の外を眺めた。窓に先輩の厳しい顔が反射して、向かいのビルの明かりと重なった。

「お前は、わかった風な口を言う。何もかも、わかったような感じだ。」

俺はひるまなかった。

「わかってるんですよ。先輩、俺らの人生なんてね、そんなもんですよ」

「俺は、やっぱり嫌だ」

「子どもなんですよね、先輩は。でも、子どもってのも悪いことじゃないですよ。」俺は微笑んだ。「いまどき、子どもって貴重ですよ。子どもですら、しけた大人じみている」

先輩はくるっと振り返ると、俺をもろに指さした。

「お前は本当にかわいくないな。お前もしけた大人だ。」

俺は書類に向き直った。

「わかってますよ」

「本当に、かわいくない。」先輩はぶつぶつ言いながら、デスクに向かった。

時計はすでに、22時をさしていた。

てきとー文芸批評

昨日、村上春樹を読んでみた。最初の1ページでやめた。文章はうまいことは伝わった。よく練られた文章であることは、1ページでも読めばわかる。だが、なんかむかつくので読むのをやめた。

つぎに、「現代の太宰治」と(片隅で)言われている某作家を読んでみた。これはまあまあ楽しめたが、半分くらいで読む気をなくした。少し浅いように思われる。青臭いことを言えば良い小説、というわけではないだろう。

日本では純文学が権威のように思われている。ひたむきに馬鹿正直に書くことは悪いことではない。また、まじめに馬鹿正直に読む読者もよくがんばっていると思う。だが、たいていの作品が私には魅力に感じない。

それはどこかで非正直な面が垣間見えるからだろう。上の偽太宰は、こういうことを書けば売れるな、人気が出るな、と考えている気がする。これは読者を馬鹿にしているし、小説を商品化している。べつに、それでもいいけど、私はそんなものを読みたくない。

それに、だいたい自家中毒に陥っているようなものが多いと思う。ナルシシズムと言い換えていい。もちろん、小説を書くことはパトスとか、情熱は必要不可欠な要素だ。ただ、それを直接乗っければ文学なのではない。それだけでは、上質な小麦粉をどんぶりに乗せて「グラコロです」というようなものである。作家は「これが芸術だ」としたり顔だが、結局は手抜きなのだ。

どうもこの辺が、日本の小説のダメなところだと思う。洗練されてないのである。全体的に子どもっぽい。なんだか親の関心をひこうとする子どものウソ泣きのように見える。ウソ泣きに騙されて、一生懸命かまってあげる親(読者)は気の毒である。

それと比べると、海外文学は洗練されている。たしかにパトスとか、狂気的な陶酔の要素はしっかりと盛り込まれているのだが、それがきちんと読者に読ませるように作りこまれている。ようは作品として完成しているのだ。

最初に村上春樹を持ち出したが、彼は上のような要素をきまじめにこなしていると思う。そのことは、1ページだけでもわかる。もともと彼は、海外文学通の西洋趣味だから、その辺のことをわかっているのだと思う。だから彼は世界で認められる小説家となっている。

また、日本の近代文学、夏目漱石とか、森鴎外、太宰についても、きちんと読ませる努力をしている(ちなみに近代で甘ったれた小説家を一人挙げるとすれば坂口安吾)。

漱石や森鴎外――かつてはたくさん挙げることのできた日本の代表的作家が、現代では村上春樹だけというのも寂しいものである。もちろん私がそれ以外知らないというだけかもしれないが、日本の文学がなにかすごいことをやったぞ、という話は春樹以外とんと聞かない。

いったい、今の日本の小説などだれが読んでいるのか疑問だ。「昔はよかった」というわけでもないが、日本の小説は近代がピークだっただろう。

でもまあ、私はそもそも、日本人に小説は向いていないと思っている。それはイデオロギーのレベルでだ。日本が近代化しようとがんばっていたときには、小説は華やいだ。でも、最近の日本は近代化を拒否しているように見える。そうなると、近代の象徴である小説はしぼんでくる。それで、甘ったれた糞ガキのような小説が蔓延する。

かつていい加減な社会学者が、日本の文化風土を「甘え」の言葉で説明しようと試みていた。いい加減だが、だいたいあっている。甘えとは相互依存的であり、個人主義の反対である。近代以降の小説は、原理的に個人主義的要素がなければなりたたない。だから、「甘え」が増強すれば、小説はクソになるという理屈だ。

もっとも、そういう甘え文化を日本の文化として認めることはできる。日本のクリスマスは、なぜかケンタッキーを食べることになっている。アメリカ人はなぜ聖夜にジャンクフードを?と首をかしげるのだが、それも日本の文化と言っていいだろう。

私は文化相対主義者だから、べつに西洋が優れているとは思わない。ただ、日本の小説がつまらない理由をなんとなく理解できた、というわけである。

Saturday, December 12, 2015

ヤブ医者

私「私は意志の弱い人間です。今日も酒を飲んでしまいました。これで、連続飲酒をして、半年になります。毎日、おいしいものを食べています。鶏肉や豚肉と、地産の野菜を合わせて……。ときにはインスタントラーメンや、フライドポテトのようなものも食べます。おいしいものと、おいしいお酒を飲んでいます。

それで、私は飲みすぎてしまうのです。今日は飲みたくない、と思っていても、夕方くらいになると、寄る辺のない不安に襲われて、大気が真空になったような気がして、私は徐々に体中の毛穴から、自分のたましいのようなものが、蒸散してしまうような気がして、私はたまらなくなり、酒を飲むのです。酒を飲めば、こうした発作は、落ち着きます。それで安寧へたどり着くのです。体は温かくなって、また体が活発に生物活動をするようになるのです。すべてがうまくいって、私は十全とするのです。先生、助けてくださいますか。私は、酒を飲み続けた果ての苦しい病や、思考の衰えが恐ろしいのです。」

Dr「もしかしたらあなたは、お酒などこの世になければ、と思っていませんか。あなたはこう想像する。私がもしも酒を飲んでいなかったら……。愚かな考えです。あなたは、お酒を飲むように生まれた。そうして、お酒を飲まないようなあなたは、存在しないのです。私は断言しますが、あなたがどんな時代に生まれ変わっても、あなたはお酒を飲むでしょう。なぜって、人類の歴史は酒の歴史とも言えるのですからね。聖書にも、葡萄酒はでてきます。伝道者の書9章7節を引いてみましょう――「愉快にぶどう酒を飲め」。もしも体毛が薄かったら?もしもにきびがなかったら?もしも宝くじに当たったら?もしもクレオパトラの鼻が低かったら?くだらない消費者根性です。あなたはなぜ、苦しい病や思考衰弱がいけないと思うのですか?人はみな、事故や自殺をまぬがれても、最後はそこへ行きつくのです。あなたは、人生に苦しんでいるし、生きるのに倦んでいる。これはアルコール中毒者の必要条件でもあります。では、あなたの感覚を麻痺させ、喜びを与え、生きることを可能にしてくれるアルコールを、どうして忌避する必要があるのでしょう。お酒とうまく付き合うことです。そうして、諦めることです。あなたは、諦めることを知る必要があるのです。何もかも諦めてしまえば、しだいに酒の方から離れるでしょう。」

Monday, September 28, 2015

光明

 田舎の山道をバイクで走る、200ccの単気筒エンジンは、野太くなった新聞配達のバイクのような音を立てて、80kgの肥満体を運んでいた。

 今日も仕事を終えた、一日を終えた、そう男は感じた。薄明り、すれ違う車もない。6Vのヘッドライトがぼんやりと路面を照らす。秋のさわやかな風が、男の頬をくすぐった。バイクのミラーには、職場の近くのコンビニで買った缶ビールがぶら下がっている。

 こうしてみると、田舎の生活も悪くないものだな。

 都会での生活を、男はあまり思い出せなくなっていた、その思い出は、悪くもなく、また良いものでもなかった。ただあまりに雑然としていて、光と闇にあふれていて、男は都市の中にいると、前を見失いそうになるのだった。そうした恐怖はあるにせよ――男は、自分がこの僻地に住んでいることが信じられない気持ちになるのだった。なぜ俺がこんなところにいるんだろう、日本列島の隅っこ、ほとんどの日本人に忘れられた地域、笑ってしまうような田舎に……。

 バイクは、重力をきちんと受け止めて、路面を蹴って進んでいる。ガソリンの爆発がクランクを回し、チェーンを伝わり、後輪を回転させる。ガードレールの外側は、草木が勝手気ままに生い茂っていて、トンネルのように道路を包み込んでいた。痛んだ道路の段差を踏みつけると、ハンドルの缶ビールがガンガンとぶつかった。

 都会での生活を、男は断片的に思い出していた、夜遅く、電車で帰るときのあの情景。白んだ蛍光灯が、疲れ切った労働者や会社員の顔を照らす、死人のように見える者もあれば、何かから逃れるようにスマホにかじりついている者もいた。窓の外には、無数の原色の看板や、まだ働いている人々のオフィスが流れていった。

 不思議なことに、結婚していた女や、仕事のこと、友人とのふざけあいよりも、そうした情景ばかりが思い浮かぶのであった。そのときは、家と会社の間であって、何の意味もない時間、何も感じずに、気づけば終わっている時間であったはずなのに。

 友人のほとんどは結婚し、子どもを産んでいる。好きだった女も、みな、結婚したようだった。永遠の伴侶のはずだった女も再婚した。男は、その女たちを思い出す、さすが俺が目をつけた女たち、したたかに生きてるなあ、と男は感じ入る。男にとって、それらの女たちは、もはや一つの光明でしかなかった。星のように、ささやかな温かみを与えるような光明、一時期は男を重く苦しめたが、もはや男を決して苦しめないような光として。

 男はついに家に着く。バイクを傾けると、その重量が四肢にのしかかる。男は疲れを改めて感じる。家は、暗い。周囲には街灯もなく、また物音ひとつしない。男の足音だけが響く。歩いていくと、サーチライトが着いた。

 帰ってきた。男は煙草に火をつける。ビールをぶらさげながら、玄関に入っていく。明日の仕事のことは忘れよう、都会の生活のことも――。男は、晩御飯の支度に入った。

 今日は芋を煮よう、腐るといけないから……。

Thursday, September 17, 2015

音楽のない喫茶店

 例えば私が作業をしているうしろを、だれかが通りかかったとする。足音、気のない視線、におい、陰影が、静謐な空気をかきみだす。それだけで、私の注意力は崩れ落ちてしまう。

 コーヒーの匂いは、私の集中力を高める。その白く揺れる湯気と、香りだけでもよいという気がする。味のひどいコーヒーでも、香りはいくらか澄んでいるものだ。すん、とスニッフすると、脳髄まで一瞬に届いて、心身がしゃきっとする。

 いくらか最高の瞬間を味わったあとに、口に運ぶ。正直いって、味はあまり気にしない。胃に落ちて、酸性アルカロイドのカフェインが吸収される。コーヒーは空腹時に飲むに限る――その方が、浮遊できるから。心地よい陶酔。

 この店のコーヒーは格別に集中できるという気がする。この喫茶店は、おそらく全国的にも稀なのではないかと思う。なぜというに、音楽がかかってないからだ。音楽のない喫茶店?人はいぶかるだろう。たいてい、店主こだわりのジャズがかかっているものだ。それか有線のボサノバ。

 おまけに、人もほとんどない。マスターがぶきっちょだからかもしれない。ここのマスターは、対人恐怖なのではないかと私は疑っている。オールバックに立派なヒゲが似合う、しゃれた人なのだが、話しかけると台無しになる。いい年をして、シャイな中学生のようにどぎまぎする。マスターの浅黒い顔が、耳まで赤くなる。しまいには、私が入店するだけで、マスターの顔に緊張が浮かぶのがわかった。わたしは別に、怖い顔をしているわけでもない。マスターは、流れの客なら大丈夫だけど、常連は苦手らしい。なんとなくその気持ちはわかるけど、それでは流行らないだろう。

 そんなマスターが、なぜ接客業をしているのかわからない。奥さんの趣味なのかもしれない。奥さんは、カウンターにはめったに出ない。奥の暖簾のさらに奥で、たいていパソコンをいじっている。何をしているのかはわからない。ブレンドコーヒーの通販店を開いているのかもしれないし、株でもやっているのかもしれない。あるいは、ネトゲ?

 ともあれ、だれもいない空間というのは貴重だ。そして、静かだから。完全な無音ではない。マスターが、グラスの整理をしたり、なにやら伝票に書き込んだり、あくびをしたりする音がする。その程度の雑音が、逆に心地よい。たぶん、だれでもそう感じるのではないかと思う。

 別段、その気もなく難解な本を読むことにしている。哲学とか、古典文学とか……。小説や新書は、すぐ読めてしまうし、何冊も本を持ち歩きたくない。

 退屈な休日は、一日を極限まで間延びさせる。窓から伸びる日光が、あちらの方角へ行ってしまうまで本を読む。こういう本を読んでいると、何かがわかったような気がして、脳の機能が一新されたような気分になる。だけど、何がわかったのかはわからない。ああ、とあくびをすると、マスターがこちらを見る。目があうと、マスターは慌てて目をそらして、顔を赤くする。

 日が沈んできたら、月曜日、そして新しい週が始まる。私の好きな一日は、来週までお預けだ。

Wednesday, September 16, 2015

#2

 ひとがもし私を見て恐れたとしても、それは私がひとと「違っているから」とは限らない。たしかに人は異質なものを見て恐れる。例えば、片腕を欠損した人間はどうだろう。あなたは少し恐れるかもしれない。目が三つある人間はどうか。そんな怪物に出くわしたら、あなたは腰を抜かすだろう。

 しかし、そういった類ではない。私は、あなたとは違わない。むしろ、違わないというそのことが、あなたを恐怖に陥れるのだ。なぜなら、あなたは、私は何者か、を問う次には、「あなた自身とは何か」を問わなければならないからだ。

 回りくどい言い方はやめよう。私は、どのような怪物とも違う、ただの人間である。しかし、あまりにも人間らしい人間なので、個性など何もないというわけだ。私は、この現代にあって、ひとつの奇形なのである。

 それなら、とあなたは問うはずだ。なぜ人間の典型であるところの私が、そこまで奇異な印象を与えるのか?それも、はっきりと奇異とは言えない、不気味な人間、とにかく不快で、記憶の隅に追いやりたいような人間なのか?

 実のところ、私の人生は惨めなものだった。私は長年孤独に生活してきた。どうやらどんな人間も、私を御しがたいと感じるらしい。私はどんな風習も、文化も、退けてきた。そうしたものは私には理解ができなかったからだ。多くの人々が居心地よく浸かるような、そういう場が私にはなかった。自然と、私は孤独へと追いやられた。

 しかし、私はただの人間である。人間とは、愛情を要求するものだ。このことは、私は人間の定義としてもよいと思う。だれかに愛されたいとか、認められたいとか思うこと。偉大な科学者だろうと、戦士だろうと、この願いのために動いてきたのだ。私のような人間にもそういう本能がある。ところが、私はもはや、孤独であることに慣れてしまった。

 あなたが私に奇異な点を感じるとすれば、それは私がもはや孤独であることを厭わないからだろう。そうしたメンタリティはあまりに根本的なものだから、私が周囲を不快にさせないように気を遣ったところで、ヒゲの剃り残しや、寝癖など……あるいは、目線、言葉遣い……そういった些細な事柄から、察知されてしまう。





Sunday, September 13, 2015

#1

 私は平均的な人間ではない。私は少し、精神的な逸脱があるようだ。もっとも、私の指は五本あり、目はふたつだ。だから、あなたが私を通りで見かけたところで、何も感じることはないだろう。しかしもしも、あなたが極端に繊細なセンスを持っているとしたら、ある違和感をもつだろう。そうして、十歩ほど歩いたところで、振り返るだろう。何かが違う。しかし、何が違うのかわからない――。

 あなたの脳の高度な処理技術が、背景と私を切り離すだろう。私は周囲の背景から浮かび上がったように見えるだろう。あなたは距離感を喪失する。背を向けた私との距離が、万ほど離れているように見えるし、反対に、肌の熱を感じるほどに近く感じる。あなたは、しかし、そのまま歩き去ってしまうだろう。大したことではない。たまに、いる。どんな場所にもそぐわない人間が。

 あなたは私を正しく判断した。そうして、取り立てて大した問題ではないとした。それがいい。あなたの防衛本能が、あなたを守った。人は、あまりに巨大な恐怖に対しては、思考することを辞めなければならない。脳のはたらきは情報処理だが、それは情報をより細分化しデータベース化するというよりも、不要な情報を「捨てる」ことにある、という説がある。私をあなたは無視をした。それはただしい。それによって、あなたは今日も食事を採れるし、眠りに入ることができる。

 しかし、少しの悪夢は見るかもしれない。夢とは人間にとって、不思議そのものだ。私たちは起きている時間を、眠っている時間と比較にならないほど評価している。夢は、覚醒している時間のお荷物、ある錯誤、なんのためにあるのかわからない盲腸のようなものと思われている。もっとも、フロイトのように、夢に治療的な価値を見つけようとした人もあるけれども……。

 ともあれ、道ですれ違っただけの人間、それが夢に出てきて、あなたを悩ませることがあるかもしれない。実際、この私という人間は、それだけ考慮に足る人間なのだ。私はあなたの心理を理解する。しかしこれは一方向的な愛だ。あなたは私の心理を理解することはないだろうから。

序文

 今回この場を借りて私があなたがたに伝えようと思うことは、たいしたことではない。たんなる、おじさんの愚痴だと思ってもらえればよい。途中で飽きたのであれば、読むのをやめてほしい。多分、大多数のひとにはつまらないだろうから。

 しかし、私は少し期待している。このように、私の「出来事」を書くことによって、だれかが何らかの影響を受けることを。私はそれを期待している。現在の私は、孤独だ。まったく隔絶されてしまった。だから、私はコミュニケーションを望んでいる。しかし、それは記述と読解という、実に緩慢なコミュニケーションだ。緩慢で、深く、えぐるような。私はそれを望んでいる。