Wednesday, December 23, 2015

てきとー文芸批評

昨日、村上春樹を読んでみた。最初の1ページでやめた。文章はうまいことは伝わった。よく練られた文章であることは、1ページでも読めばわかる。だが、なんかむかつくので読むのをやめた。

つぎに、「現代の太宰治」と(片隅で)言われている某作家を読んでみた。これはまあまあ楽しめたが、半分くらいで読む気をなくした。少し浅いように思われる。青臭いことを言えば良い小説、というわけではないだろう。

日本では純文学が権威のように思われている。ひたむきに馬鹿正直に書くことは悪いことではない。また、まじめに馬鹿正直に読む読者もよくがんばっていると思う。だが、たいていの作品が私には魅力に感じない。

それはどこかで非正直な面が垣間見えるからだろう。上の偽太宰は、こういうことを書けば売れるな、人気が出るな、と考えている気がする。これは読者を馬鹿にしているし、小説を商品化している。べつに、それでもいいけど、私はそんなものを読みたくない。

それに、だいたい自家中毒に陥っているようなものが多いと思う。ナルシシズムと言い換えていい。もちろん、小説を書くことはパトスとか、情熱は必要不可欠な要素だ。ただ、それを直接乗っければ文学なのではない。それだけでは、上質な小麦粉をどんぶりに乗せて「グラコロです」というようなものである。作家は「これが芸術だ」としたり顔だが、結局は手抜きなのだ。

どうもこの辺が、日本の小説のダメなところだと思う。洗練されてないのである。全体的に子どもっぽい。なんだか親の関心をひこうとする子どものウソ泣きのように見える。ウソ泣きに騙されて、一生懸命かまってあげる親(読者)は気の毒である。

それと比べると、海外文学は洗練されている。たしかにパトスとか、狂気的な陶酔の要素はしっかりと盛り込まれているのだが、それがきちんと読者に読ませるように作りこまれている。ようは作品として完成しているのだ。

最初に村上春樹を持ち出したが、彼は上のような要素をきまじめにこなしていると思う。そのことは、1ページだけでもわかる。もともと彼は、海外文学通の西洋趣味だから、その辺のことをわかっているのだと思う。だから彼は世界で認められる小説家となっている。

また、日本の近代文学、夏目漱石とか、森鴎外、太宰についても、きちんと読ませる努力をしている(ちなみに近代で甘ったれた小説家を一人挙げるとすれば坂口安吾)。

漱石や森鴎外――かつてはたくさん挙げることのできた日本の代表的作家が、現代では村上春樹だけというのも寂しいものである。もちろん私がそれ以外知らないというだけかもしれないが、日本の文学がなにかすごいことをやったぞ、という話は春樹以外とんと聞かない。

いったい、今の日本の小説などだれが読んでいるのか疑問だ。「昔はよかった」というわけでもないが、日本の小説は近代がピークだっただろう。

でもまあ、私はそもそも、日本人に小説は向いていないと思っている。それはイデオロギーのレベルでだ。日本が近代化しようとがんばっていたときには、小説は華やいだ。でも、最近の日本は近代化を拒否しているように見える。そうなると、近代の象徴である小説はしぼんでくる。それで、甘ったれた糞ガキのような小説が蔓延する。

かつていい加減な社会学者が、日本の文化風土を「甘え」の言葉で説明しようと試みていた。いい加減だが、だいたいあっている。甘えとは相互依存的であり、個人主義の反対である。近代以降の小説は、原理的に個人主義的要素がなければなりたたない。だから、「甘え」が増強すれば、小説はクソになるという理屈だ。

もっとも、そういう甘え文化を日本の文化として認めることはできる。日本のクリスマスは、なぜかケンタッキーを食べることになっている。アメリカ人はなぜ聖夜にジャンクフードを?と首をかしげるのだが、それも日本の文化と言っていいだろう。

私は文化相対主義者だから、べつに西洋が優れているとは思わない。ただ、日本の小説がつまらない理由をなんとなく理解できた、というわけである。